クラウンとピエロ〜ドゥビュローについて
クラウンじ~にょです。こんにちは。
今まで当ブログで色んなクラウンを紹介してきましたが、本日は、ジャン・バチスト・ドゥビュローという無言劇役者を紹介していきます。
クラウンにも大きな影響を与え、世界的にも大きな影響を与えた人物です。
じ~にょの推測では、このドゥビュローという人物がいたから、日本では「クラウン」という言葉ではなく、「ピエロ」という言葉が広がっていったのではないかと考えています。
それでは、ご覧ください。
ジャン・バチスト・ドゥビュロー
(1796~1846)
ドゥビュローは、フュナンブル座で活躍したピエロ役者です。
ピエロというのは、クラウンの役柄の一つで、ある特定の衣装やメイクをした役柄の事を指します。
つまりは、フルーツというカテゴリーの中にイチゴが存在するように、クラウンというカテゴリーの中にピエロが存在します。
日本では、ピエロという言葉が有名になりすぎて、クラウンという言葉を超えてしまいました。
まぁ、「ピエロとクラウンの違いについて」はまた別の機会に記述させて頂きます。
ドゥビュローの話に戻ります。
ドゥビュローは、フランスで大活躍をしたピエロ役者で、当時のフランスに大きな社会的影響を与えました。
当時のパリの話題の中心になったり、グッズが多数発売されたりしました。
舞台で活動をしていましたが、サーカスにも大きな影響を与えて、ドゥビュローの演目がそっくりそのままつかわれることもありました。
また映画、『天井桟敷の人々(1945年フランスで公開)』のモデルとなっています。
この映画はフランス映画史上でも名作と言われて、日本でも世界的にも評価の高い映画です。
ピエロと涙
さて、皆さんは「ピエロ」と聞くとどんなイメージですか?
「顔が白くて、涙を流している」
「もの悲しい」
「話すことができない」
などのイメージを抱く人が多いと思います。
実はこれらは、ドゥビュローが作り上げたイメージと言っても過言ではありません。
「ピエロ=涙」は、ドゥビュローが最後の舞台の時に、涙を流した事から広まっていったイメージと言われています。
当時の舞台では本物の涙を流すという事は考えられない事だったので、ドゥビュローが涙を流したという事が伝説となって広がっていきました。
『ドゥビュロー最後の数日』という文章を書いた文学者が最後の舞台の時に、白粉の上から一筋の涙が流れたと記述しています。
真実は分かりませんが、これ以降ピエロは、「悲しきピエロ」や、「涙を流すピエロ」となって、過剰生産され、人形や挿絵、玩具、ポスターなどに氾濫していきました。
また、「話すことができない」というイメージは当時のフランスでは、セリフを使った舞台が禁止されていたため、このようなイメージが広がっていったのではないかと考えられます。
ピエロと殺人者
「ピエロ」と聞くと怖いイメージを持っている人も多いのではないでしょうか?
最近のホラー映画でも、怖いピエロや殺人をおかすピエロが登場しており、そのイメージが広がりつつあります。
このイメージもドゥビュローの影響が大きなものとなっています。
ドゥビュローは殺人を犯しました。
自己防衛のためのもので、無罪放免となっていますが、杖で相手を叩いて殺してしまったと言われています。
無罪とはいえ、当時、大スターだったドゥビュローが殺人を犯したという事は、センセーショナルな話題となりました。
その後に演じた『古着屋』という舞台の中で、ドゥビュローは殺人を犯す役柄を演じて、そちらも話題となりました。
しかし、この事件を契機に、ドゥピュローは喜劇的でアクロバティックな肉体を失っていきました。
また、この頃、パントマイムというジャンルの衰退も始まっていき、ドゥビュローに陰りが見え始めました。
19世紀後半、ドゥビュローをモデルにしたとされている「ピエロ」という小説が書かれましたが、これには「犯罪者的ピエロ」が描かれました。
ピエロは苦悩を顔に表した、悲劇的道化になっていきました。
こうして「殺人者ピエロ」や「悲しきピエロ」像が作りあがっていきました。
月とピエロ
ドゥビュローの死後の数年後(19世紀後半)に、フランスでは再びピエロブームがやってきました。
雑誌『黒猫』にヴィレットによって、月とピエロの組み合わせが描かれ、ヒットしました。
ピエロの漫画が続々と描かれるようになり、その漫画には三日月が頻繁に描かれるようになりました。
19世紀末のピエロブームは、『黒猫』の漫画によって火がつけられ、ピエロと月の組み合わせのイメージも作られていきました。
生涯年表
1796年7月31日に生誕。
バチストというのは芸名で、ジャン・ガスパール・ドゥビュローと言ったりもします。
父親はフィリップ。息子3人、娘2人。
ガスパールは長男で一家のなかで一番軽業が下手だったと言われています。
1817年頃 ドゥビュロー一家がフュナンブル座と契約
1819年7月、ジャンヌ・アデライード・デュプレと結婚。(後に死別)
1824年ごろ、ピエロの役を与えられた。
1826年 フュナンブル座とピエロの専属契約が交わされる。
『暴れ牛』がヒットする。
ドゥビュローは、袖が長いゆったりとした白いキャラコの上っ張りのようなものを着用。黒い半球形の帽子をかぶり、その中に髪をすべて収めた。
『床屋のピエロ』を演じた時に、床屋の仕事着からだぶだぶの上っ張りのような白い衣装を思いついた。
1828年 ルイーズと結婚しているが、その前年に、女の子が産まれている。
1829年 双子の子供が産まれる(ジャン・シャルル、エチエンヌ・コンスタン)
1835年 ルイーズと別れて、マリー・トリウーリエと結婚。
1836年 殺人事件をおこす。
1842年 『天井桟敷の人々』でも演じられた『古着屋』がヒット(7回しか演じられなかった)
『天井桟敷の人々』では、殺人などをカットして「悲しき道化」
実際の『古着屋』は、殺人の要素を含む「殺人者道化」的な部分も
1846年6月17日 ドゥビュロー死去
参考資料
『天井桟敷の人々』
監督 マルセル・カルネ
主演 ジャン・ルイ・バロー
『ピエロの誕生』
田之倉稔