日本のクラウンの歴史

こんにちは。クラウンじ~にょです。
不定期開催のクラウンについてのお話。
第二回目の今日は、日本のクラウンの歴史についてのお話です。

皆さんが初めてクラウンと出会ったのはいつの事ですか?どこですか?
「小さい頃にサーカスで見た?」
「ショッピングセンターで風船を配ってた?」
「大人になってから、大道芸で見た?」
など、様々だと思います。
実は日本にクラウンが入ってきたのは、まだ30年くらいなんですね(2020年現在)

それまでも、サーカスに数名いることはいたのですが、街中でも見られるようになったのは最近のことです。
それでは、日本のクラウンの歴史を語っていきましょう!

クラウンカレッジジャパン(CCJ)

リングリングサーカス

今の日本のクラウン界があるのは、クラウンカレッジジャパン(以下、CCJでいきますね)のおかげと言っても、過言ではないと思います。
ここまで日本のクラウン界を引っ張ってきた方々の多くはCCJ出身で、現役のクラウンのほとんどがCCJの影響を受けています。

CCJとは何か?
それは、1989年、日本にできたクラウンの養成学校です。
アメリカ、リングリングサーカスのクラウンカレッジが元となっています。
クラウンカレッジは自身のサーカスに出演するクラウンを養成するための施設としてフロリダに本拠地がありました。アメリカでも、数々の有名なクラウンが輩出されているのですが、その開校20周年事業の一環として日本に分校が作られたというのが、CCJのできた経緯です。

1989年9月に開校式が行われ、12月に卒業公演が行われました。
その後、1990年に第二期、1991年に第三期と開校されるのですが、バブルの崩壊もあり第三期でCCJは短い役割を終えてしまいました。

授業は月~金の9時半から17時まで、4か月の間に350時間の集中講座。
「クラウニング」、「キャラクターの開発」、「即興」、「パントマイム・マスク・ムーブメント」、「メイキャップ」、「ジャグリング」、「マジック」など、様々な講義があったそうです。

3年でなくなりましたが、その間に3期66名の卒業生を輩出しました。
卒業生の中には今でも、クラウンとして第一線で活躍し続けている方やクラウン講座を開講してクラウンの文化を広げていっている方、大道芸界で中心になっている方などなど、かなりのネームバリューのある卒業生の方々ばかりです。

短い期間で終わってしまったことや、その後の活躍もあり、CCJの卒業生はクラウン界の中でも特別な方ばかりで、自分の中では伝説的な方ばかりです。

現在の日本のクラウン

CCJが無くなってしまった後、日本のクラウンの灯が消えてしまったかというとそうではありませんでした。卒業生が講座やワークショップを開いたり、街中でクラウンを見て、クラウンに興味を持つ人も増えてきました。

1994年にCCJの卒業生が講師となりバナナサーカスクラウンスクールというクラウンを学ぶ団体が発足したり、同じ年にじ~にょが所属するプレジャーBも、「熱田の森中日文化センター」にCCJの卒業生がクラウン講座を開講したのがきっかけでできました。

また、パントマイムからクラウンを学んでいく人、バルーンやサーカスからクラウンを始めていく人もたくさんいます。
俳優さんが演技力の向上の一環でクラウンを学ぶこともあります。企業が研修でクラウンのマインドを学ぶこともある時代です。

クラウンにならなくても、クラウンに触れている人は増えてきています。
今、日本にクラウンは何人くらいいるのでしょうか?
静岡の「市民クラウン」の方々や東京の「OPEN SESAME」さんで学んだ方々、大阪の「G・EーJAPAN」の方々、サーカス学校、クラウン的な稽古会、夢奇房、どりぃむぼっくす、(名前があがらなかった方、申し訳ないです)、などなどたくさん。

当初の66名から、ある人曰く、ねずみ講のように広がっていきました(笑)。
とは言っても、まだまだマイナーな分野です。

これから、良い方向にクラウンが進んでいけたら良いなぁっと思います。

CCJ以前の日本のクラウン

CCJ以前にも日本にクラウンは存在しました。
この章は、自分の推測もかなり入ります。推測って楽しいですよね。

初めて日本にクラウンが現れたのは、1864年の事かなっと思われます。(「思われます」っと言うのは、確証がないからです。ここからは話半分で読み進めて下さい。)

なぜ1864年かと言うと、横浜で「リズリーサーカス」が日本で初めてサーカスの上演を行ったからです。その際の演目表が残っており、そこに「道化役の色物」という演目があったので、そこが初めて日本にクラウンがやってきた瞬間ではないかと思いました。

日本で初めて行われたサーカスの日は、同時に日本で初めてクラウンがやってきた日であると。。。(この「道化役の色物」を演じた方が専門のクラウンなのかどうかは分かりませんが、初めて行われたクラウン芸ということでは確かかなっと)

その後明治に入り、日本が開国されると様々なサーカス団が来日しました。
この中にはクラウンもいたと思われます。
1909年に、英国ヒッポドロム大曲馬が来日した際、道化師ローコーが取りあげられた記述があるので、このころには日本人の目にクラウンが触れられています。

しかし、日本にはクラウンが広がっていきませんでした。陽気で能天気なクラウンが日本人には受け入れられなかったのでしょうか?
この頃の日本人にクラウンが受け入れられていたら、今の日本のクラウンの歴史も大きく変わっていたでしょうね。
日本では元来、歌舞伎で滑稽なことをする道化の役もあり、受け入れられても良かったと思うのですが。

では、外国のクラウンが日本にやってきて活動していたのは分かった、と。
じゃあ、初めて日本人のクラウンが現れたのはいつなのか?
(この時、歌舞伎の道化役とクラウンは分けて考えてみます)

ここからは完全に推測です。温かい目でお楽しみ下さい。
推測するに、1800年代の後半から1900年代の前半ではないかなぁっと思います。

根拠は、1860年代に日本が開国されサーカスが入ってくると、日本国内でサーカス団を作るものが現れました。
1899年に山本政七らによって、日本で初めてサーカス団が作られました。この時に、見よう見まねでクラウンの役を演じた日本人がいるかもしれません。

こんな話もあります。1886年に、イタリアの「チャリネ一座」が来日します。この公演に強い衝撃を受けた五代目尾上菊五郎は、『鳴響茶利音曲馬』という猛獣使いなどが登場する歌舞伎を上演しています。この演目にクラウン的な役があったかもしれませんね。そうなると、クラウンを演じた日本人がいるかも知れません。

また、1908年から、ヤマダサーカスというサーカス団がロシアを横断していました。日本のサーカス団が海外に行っていたこともあります。
この時に海外に行ったサーカス団のいづれかが、外のサーカスを学び自分のサーカス団にもクラウンを登場させたことがあるのではないかと推測できます。
日本人の初めてのクラウンが現れたのは、きっとその頃なのではないでしょうか?

話がだいぶマニアックな方に行ってしましましたね。
時は進み、CCJの入ってくる前の1980年代の日本のサーカス団には、「ピエロの○○」というクラウン役の日本人も数名いました。
ただ、CCJの登場までクラウンの数はそんなに多くなかったのは確かです。

この章は推測ばかりで、すいませんでした。

参考文献
『THE ART TIMES 』 デラシネ通信社

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